町家のつくり

町家

町家

町屋とは平城京や平安京・大阪城・江戸城の城下町など当時、都として栄えた町は縦横の格子状に区画整理されていました。これを町割といい、その中に設けられた主に商業を生業とする庶民の住居兼仕事場であった「町屋のつくり」です。

京都の町屋は間口が狭く、奥へ細長い造りの家屋が密集して建てられていたため、別名「うなぎの寝床」とも呼ばれていました。ここでは京風な雰囲気の町屋の造りから昔の日本人の工夫をこらした間取りについて学んでみましょう。

町屋の間取り

昔の町屋の間取りは、片側に通り土間もう片方に店と台所と奥という3部屋を設け一つの屋根で覆うという造りが基本でした。更に詳しく町屋の間取りを見てみると通りに面した門口をくぐると細長い土間の奥の方へ向かって伸びています。これが「通り庭」です。土足のまま出入りができ、天井は吹き抜けになっていて炊事に伴う煙や湿気を逃がす役割を担っていました。

部屋は通り庭に沿うように並び、手前から職人の仕事場や商売のための空間の「店の間」お客様を迎える「玄関」「中の間」と続き、玄関の奥にあるのが「中戸」で公私の空間を分ける境界であります。ここをくぐると台所があり、その奥にある静かな「奥の間」は客間などに使われる格式高い座敷でした。前には坪庭が設けられ観賞と共に風の流れを取り入れる造りとなっています。

町割の仕組み

町屋のつくり

町屋を生んだ町割の仕組みは、長安の都を模して造られた平安京が、縦横の格子状の路である条坊によって区画整理されていた形を「町割」といい、40丈(約120メートル)四方の区画を一町と呼ばれました。

それをさらに、南北に8つ・東西に4つに分けたのが一戸主と呼ばれる一戸分の敷地で、約130坪と以外に広く設計されていました。


京都や江戸など人が密集する大きな町では、庶民は町屋のように区画の中に多数設けられた家や長屋で暮らしていました。それに対して一軒建ての農家や商家などは「民家」と言います。民家の造りや間取りに関しては別ページ「古民家風の構造と表現」を参照して下さい。

昔の町屋

店の間
店の間は今日の町屋の中で内と外と繋がる最初の空間です。入口の格子戸は通風や採光の効果以外に内側から外が見える仕組みになっています。格子の意匠を見ると米屋は「米屋格子」酒屋は「酒屋格子」など生業によって桟の大きさや組み方など少し異なり、景観を守りながらさりげなく個性があります。
店庭・中坪
道に面した暖簾をくぐってすぐあるのが「店庭」と呼ばれる土間です。道の延長のような空間で板戸を介して店と隣接していることから店庭と言われ、昼間は客が出入りします。店庭を過ぎると「中坪」に出ます。通りに面した商売向きの玄関である門口に対し、主人が招いた客のみが通過できる入口で、その奥には中戸があり商業と居住空間の境界となっています。
坪庭
町屋には必ず坪庭が造られていました。一坪ほどの小さな庭であることから坪庭と言われ、この庭があることで細長く薄暗い町屋に風と光を取り込むことができます。また夏の暑い日には坪庭に打ち水を行い、涼しく室内を静かに循環して爽やかな涼感を生む役割りがあります。
走り庭
町屋の片側を貫く「通り庭」店の前の「店庭」玄関の前の「中坪」の奥にある中戸を越えると「走り庭」があります。走り庭には井戸・かまど・流しなど、現代で言うキッチンで忙しく走り回る場所であることから名づけられました。また走り庭には衝立や嫁隠しと呼ばれる仕切りが設けられ、上部の吹き抜けは火袋と呼ばれ、煙り出しと採光を兼ねた天窓が付いていました。
奥の間
「奥の間」は町屋の一番奥にあり、主に賓客のもてなしや結婚式など公事が行われていた格式高い部屋です。床の間・床脇・付書院を設けた書院造りを模した造りで欄間の装飾・ふすまの引き手など建具の細部に至るまで主人の好みや家の格式が反映されています。奥の間の広さは10畳ほどで、江戸時代以降は茶の湯の流行を受けて小間という4畳半の茶室も続きで造られました。

昔の日本の間取り

昔の日本では部屋を「〜の間」と呼びます。この「間」とは柱と柱の間のことで、部屋には土間や板の間・畳の間・座敷など床材の違いによる呼び名、茶の間・客間・仏間など用途の違いによる呼び名、奥の間など場所を表す呼び名があります。

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